「新世紀初・今世紀最後?立川談志の独断場」
談志ひとり会
11月11日 立川談志
東京厚生年金会館




厚生年金会館での独り会、さァて何十年振りになろうか…。
そう、家元がまだ若く、海軍兵学校に在学した頃か、
いや、もっと前、彰義隊にいた頃か…。
お笑いスターとその頃呼ばれ、TVに舞台に映画に…
ついでに寄席の高座に、眠る間のない生活をしていた。
もっとも深夜は酒色の日々だった。
正確には酒と騒ぎで女性の縁はさほどなかったことを書き添えておく。

        -○-

二十代の後半か、いや、三十代の前半か、いづれにしてもそんな頃だ。
若さは強い、おまけにこの気性だ“何でも持って来い”と
片っ端から片付け処理していたっけ。
それも“どうでぇ”と結果に胸を張って…。

        -○-

ギチ一杯のこのホール、昔から広かった。つまり現在(いま)のまんまだ。
そこで独り、いや助っ人もいた。何、助っ人という程の奴ではない。
何せ毒蝮三太夫、という素人に毛の生えた程度の者だ。
幕が開く、ついでに書いとくと家元は
楽屋にいる時は幕が開くとすぐ出てくる。
出ない時は居ないとき。まだ楽屋に入ってない時か、
セコをふかしている時か、何か喰っている時だ。
遅れてきて幕の閉まって会場の客席の裏方(うしろ)から
大声で叫んだことがある。“早く始めろォー”
これには客も驚いた。呆れ返って大爆笑となったっけ。
で、昔のこの場の独演会だ。
まず背広姿で“ふらっ”と出てくる。伴奏も何もなし。
家元、小朝と違ってケレン味に興味がない。で、着ている物も十年同じ。
いや、もう三十年も同じ。
「家元、いつも同じスタイルですネ」に「GIANTSをみろ」である。
これはどっかで喋ったし書いてあるはづ…。
センターマイク一本、ライト一本、
で時事漫談を小咄をジョークを一時間ばかり喋り、
舞台の袖からマムシを呼んで漫才だ。
終わって落語を二席、と覚えている。
漫談の満足感はあったが落語での充足感、
“どうでぇ”という咄の記憶がない。
若さのせいか、何だろう。まさか下手だった訳でもあるまいに…。
こんなスタイルが大きなホール、劇場の独り会でありました。

        -○-

それから数十年経った。立川談志芸暦五十年、
もう駄目、疲れ疲れの人生、日々であります。
人生の幕引きのこの頃、落語とは何か、を見つけ、
それに向かっての日々、けど身体が保たない。
(酒をやめっりゃいいのだろうが…)
「落語とは人間の業の肯定」といった二十代の私。
常識に対する非常識。
いまや、その非常識すら常識になってきたこの現代では、
人間の本当の業、常識にも非常識にも総括出来ない人の心の奥にある
曖昧模糊とした、モノ。
それが現代では認められてのこの世の事件、トラブルの数々、
それに向かっての談志ドンキホーテ。
“もういいよ、やめたい”と文句たれたれ生きながらえてござるのだから
我ながらだらしがない…。
本来現代(いま)のような咄家供の程度なら
とっくに寄席は潰れていいはづなのに…。
何故かそこそこ残ってる。
ことによると日本人は坐って咄家という生き物を見てるのが
好きなのかも知れナイ…。

立川流落語会
家元 立川談志






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