新春プラザ寄席 |
| 1月4〜6日 | 大田区民プラザ大ホール | 立川談志、志らく、志の輔、ケーシー高峰ほか |
正月は寄席、つまり笑い、俗に世でいう“お笑い”から始まる、という習慣があった、いや現代(いま)もある。あるからこの「プラザ寄席」も成り立っている。
ついでにいうと、「笑い」に「お」の字をつけて、「お笑い」とは誰が言いだしたのやら……。
まァ、考えられるのは咄し家が“えー、お笑いを申し上げます…”といってたからだろうけど、その咄し家は何で“笑い”に“お”の字ィ付けて“お笑い”などヌかしたのか、考えてみると楽しい、いえ不思議である。誰が何処で最初に喋りゃがったンだろう。
誰か、こんなことを調べてみる暇な奴は居ないだろうな…。
家元、ふと、そんな事にこだわるのだ。でも「お笑い」はいい、これに対抗する枕言葉は見当たらない。
「えー、皆さん、笑っちゃいますよ、これからおかしい事をいいますヨォ…」駄目かあ、
「えー、ワッハッハッ、っといきましょう、イッヒッヒィ、でもいいですよ、では、そうそう…」駄目だネ。
「えー、これから笑わせますよ、いいですか…」つまり駄目なのだ。
正月は「お目出度うございます」であり、病人には「お大事に」咄し家は「お笑いを申し上げます」が一番いいのか、楽なのか。
で、ここ数年、いや、もっとか、数年なんという言葉以上にここで正月を迎えて、回数の重みは増えてきた。
この地、つまりお家元御幼少のみぎり、お過ごし遊ばされた光明寺の清池、多摩川に掛かる、夢の橋ガス橋、下丸子の駅、上がっていきゃあ千鳥町、そして池上の本門寺、そうそう久ヶ原の上のほうは高射砲の陣地があったっけ、そこから敵B29の襲来に対し、申し訳程度の弾が青空に煙火花火のように“ポン、ポン”っと夢のように見えたっけ、それは童話の挿し絵のようだったっけ……。
幼き日の想いはいくらでも拡がる、けどそれを聞き、相槌ィ打つ友人、仲間もいなくなった。
けど、それは何っ処(どっか)に語って置きたい。それこそ“語る”のであって、本や書物で書き残すのではない。人に語り、相手に喋る、ということが大切なのだ。
正月用のプログラムを書くように依頼(たの)まれたが、その為に思考を向けようとは家元しない、ロクな文(もん)が、書けないからだ。
“ロクな文(もん)”とは、これ以上に酷い、ツマラナイ文ということだ。
ま、いいか。
正月の、4、5、6と、家元、仲間や弟子とこの地に居る。この地には母親がまだ元気すぎる程元気で生きてケツカル。
ヤレ浅草だ、上野だ、日比谷だ、新宿だと掛け持ちの正月を過ごしてきた若き頃もあったが、別に感慨もない。一つの思い出という程度だ。
「新春プラザ寄席」もそんな程度の思い出として残るのか、いや、どうも違うように思える。それは家元(わたし)の年齢と、人間形成をしたろう子供時代をこの地で育ったせいであろう……。
まづは、おめでとうございます。
えー、お笑いを申し上げます。
皆様御身体(おからだ)大切に……。
1998.1.1
立川流落語会
家元 立川談志

プログラムメニューへ戻る