番外編 談志ひとり会 |
| 7月14日 | 有楽町マリオン 朝日ホール | 立川談志、志らく |
評価というものは相手がきめることではあるが、この際反論というか、こちとらの弁…ということは、その相手の評価に対する当方の評価。
朝日新聞に出てた小山観翁氏と朝日太田記者の談志評。
「落語の型が出来てない」「会話が平坦である」という小山氏の評だが、一言にいうと技芸から技を捨てることを最大の目的にしている芸人に、この評価は価値基準が違うのである。
ちなみにいうと、志ん生師匠は一見“技芸から技を捨てた”ように見えるが、実はこの師匠技が出来なかった。結果、それを求めている処が駄目であった。
芸の出来上がり具合をいうのではない、姿勢の問題、芸の捉えかたのことである。
つまり、小山氏、志ん生と家元は求める芸の価値観に相違があるから、その相違を論じるべきであるのだ。
-○-
太田記者は「談志は他流試合をしない」とあるが、これも違う、現実にはしている。「していない」と感じたら、それは落語協会にいうべき言葉であり、家元の挑戦に誰ぁれも受け手がないのである。
で結果、演芸会などで一緒になることがあるが、これまた落語として家元と価値観が違うから、「何でこんな連中と一緒に演らにゃいけないのか…」と事務所に文句の始末である。
むしろ問題は家元の中にある。
「技」を捨てるべきなのに捨てられない部分、捨てきれない己への未練のだらしなさであろう。
「落語という型の中でそれを演じるから伝統芸なのだ」、というなら、その伝統は捨てるべきなのであって、それが出来ない家元の鵺的(ぬえてき)態度を攻めるべきなので、それを指差してくれる評者は一人もいない、いえ、それは「客席にいる」と家元思っている。
-○-
週刊文春に至ると、これまたこうも違うか、というこった。
家元「番組で文句をいい、結果ゲストである談志に対して応対が失礼であったので途中で帰った」ということなのだが、文句をいったのは番組の司会者の発言に対してであり、途中で帰っちゃったのは、番組がツマラナイし、失礼であったから帰っちゃっただけのことなのだが、それを評者は「司会者への文句」と、家元が途中で帰ったことも「番組への抗議」と解釈してた、つまり、「一緒の行動である」…と。
家元番組なんぞに抗議、文句なぞいうものか、それこそ価値観が違うから帰っただけなのである。
こんなこたァ書いたって仕様がない、けど家元の行動一つをとってもこちとらの言い分とすりゃこれほどの誤認がある、ということ。
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その誤認を家元も週刊現代で書いている。けど、けど、その誤認を“承知しているか”“否か”ということなのだ。
ま、いいやそれより“この際どうするか”
伝統芸とイリュージョンをセパレーツしちまうか、違うよなァ“落語ン中にぶち込め”だよなァ…随分変えてはいるけれど、入れてはいるが駄目だよなァ、落語の枠を壊してないよなァ…壊すのが目的ではない、結果壊れる筈なのに…。
もう駄目だネ、しょせん偽物だネ。
そのほうが観客も安心出来るネ…。
少し休もう、海へ行こう。
潮風と水と空…一緒にいよう。
それとも都会のクーラー熱の暑さの中にいるか…。
立川流落語会
家元 立川談志

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