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「お相撲さんにはどこが良くて惚れた。稽古帰りの乱れ髪」なんと言いますが、気は優しくて力持ちが我々力士の本文であります。此の度、文字助さんが国立劇場で相撲噺を演るという事ですが国立劇場と云えば我等力士にとっては本場所と同じであり私も是非顔出しを致したいと思いましたが生憎秋巡業で九州一円を巡っており伺えません事をお詫び申します。文字助さんが歴代横綱六十七人を短い逸話を入れながらご披露するとの事ですので私もほんの少し横綱について申し述べるといたします。横綱の由来について吉田司家に次のような面白い話しが伝わっています。平安時代の弘仁年間(八一0〜八二三)摂津国(大阪)住吉神社で行われた神事相撲に近江国(滋賀県)の住人でハジカミという力士がおり天下無敵の強者であった。当時の行事、滋賀左衛門尉は住吉神社の注連縄(しめなわ)をハジカミの腰につけて相手の中でこの縄に手をかける者があればハジカミの負けとして相撲をとらせた誰一人これに手をかける者は無かった。これが横綱の初めというものである。まっ、これはひとつの伝説であろう。横綱土俵入り(方屋入り、手数入りともいう)には雲龍、不知火のふたつがあり、雲龍型はせり上がりの時に左手を曲げて乳の下にあて右手を横にのばす。左手を曲げるのは守りの手で、のばした右手は攻めの手であり攻防兼備の型である。不知火は左右両腕をいっぱいにのばす攻め一方の豪快な型である。綱の締め型も雲龍型は後ろの結び目の輪が一つだが不知火は左右に二つの輪を出す蝶結びとなっている。近代では雲龍型の横綱が圧倒的に多い。今日では横綱の右に太刀持ち、左に露払いというのが慣例である。土俵入りでは花道を露払い、横綱、太刀持ちの順で入場してくるので西方の場合はそのまま土俵へ上がる。しかし昭和初期まではそんなしきたりは無く入場したままの順で上がっていたので太刀持ちと露払いの位置が今とは逆の事もあった。 ……オット、これ以上の事は演者に迷惑、ワシはこれにて蒙御免。皆様、文字助、談四楼両師の噺多いに楽しんで下さい。 寛政元年神無月吉日 思わずジャケットのデザインやタイトルの良さに惹きつけられて、見知らぬLPやCDを購入してしまう、いわゆる“ジャケ買い”というやつを音楽ファンなら経験したことがあるだろう。 その奇妙な書名な単行本との出会いも、まさにそういった感覚に近いものだった。小学生でも分かることばで構成されていながら、意をはかることがはなはだ難しい不思議な七文字。が、題名を戴くカバーの装丁は奇をてらわず端正でなおかつシャープな仕上り。しかも著者にふさわしい仕掛けがなされていたのだった。 中身を開いてはじめて小説集だと知ったが、もちろん躊躇なくレジへと運んだ。さいしょは未知の書き手との遭遇を楽しむつもりだった。しかし、それはうれしい誤算となった。読みすすむうちに上手さに驚き、才能に舌を巻き、さいごは「作家」を見逃していた編集者としての不明を恥じていた。 一週間後、私は『石油ポンプの女』を手にし、国立演芸場のロビーを訪ねていた。意中の人に会うまでの心地よい緊張感を解くように現れた落語家は、腰が低く実直で不思議と芸人特有の臭みが感じられなかった。もちろん、「するってぇと、なにかい」「さいでゲス」などと言うとは思わなかったが、何やららしくないのである。ただ、小説に賭ける熱い思いだけは伝わってきた。噺家とはいえ、的確にコトバを操る語り口に才気が光る。ここから、小説家立川談四楼と編集者との関係がはじまった。 二年にわたる産みの苦しみのすえ完成させたのが、初の書下ろし長編『ファイティング寿限無』。ボクシング小説の傑作と評してもけっして誉めすぎではない作品の登場だった。 それから二年、談四楼さんは短編集『「師匠!」』を上梓した。 読み終えたとき、かつて担当していたノーベル賞候補にもなった作家の言ったひとことを思い出していた。 「小説家には作品のある者と、ない者がいるんだよ」 ついに、談四楼さんは作品を手に入れたのかもしれない。その才能の丈を小説に費やして欲しいと願うのは、もはや私だけではあるまい。機は熟した。 高座から観客をわかせた立川談四楼の新作が書店の棚に並ぶとき、彼の作品を手にした読者は言うだろう。 「天才は忘れたころにやってくる」 新潮OH!文庫 編集長 |